つながる音楽劇「麦ふみクーツェ」大千穐楽を観劇した

昨年の12月25日、わたしはブエノスアイレス午前零時を観劇するためにシアターBRAVA!へと足を運んだ。終演後、ロビーの階段付近にあったたくさんのポスターの中にチューバを見つけた。麦ふみクーツェのポスターだった。ポスターには「観客はそれぞれ、一人が一個ずつ何か音の発するものを持参すること。ただしサイレンのみ禁止。」と書いてあった。これは面白い舞台だと直感した。わたしは迷うことなくチケットを購入した。

当日、何を持っていくか散々悩んだ挙句、相棒であるクラリネットブルースハープ、高校の卒業記念品のマイ箸(ケースにいれるとガチャガチャうるさい)、スーパーで購入したフエラムネを持参することにした。選びきれなかった感満載。 

席についてクラリネットを組み立て始めると(普通は演劇を見に来た人間がすることではない)、舞台では楽団員達が音出しをし始め、やがてロングトーンが始まった。その光景に中学・高校時代のすべてを費やした部活の思い出がオーバーラップして少し泣きそうになった。
開演前にチューニングが始まり、松尾貴史さんの前座のような観客への合奏のレクチャーがあると、やんわりと話が始まる。そのあやふやな境界線に、ぐっと作品に引き込まれていった。


「この世におよそ打楽器でないものはない」

渡部豪太さん演じる"ねこ"と呼ばれる青年のおじいちゃんの口癖。それが、この舞台の合言葉だった。"ねこ"と港町にあるヘンテコな楽団の物語。予算がないのでティンパニはドラム缶で代用。"ねこ"は猫の鳴き真似がこの世で一番うまかった。
 -この世におよそ打楽器でないものはない
そう、"ねこ"は自分自身が楽器だった。
"ねこ"にはクーツェが見えた。クーツェはいつも麦ふみをしている。"ねこ"は音楽をティンパニ奏者のおじいちゃんではなく、クーツェから教わった。クーツェは"ねこ"にしか見えない。

 
「音楽はいつも繋がっている」
まさに、つながる音楽劇だった。音と音が繋がり、舞台と客席がつながる。音の楽しさに溢れた作品だった。でも、ところどころその楽しさに切なさが見え隠れする。おじいちゃんがティンパニ奏者なのも、持参する楽器で唯一サイレンが禁止な理由も、心がきゅうっとなるような切なさがあった。

持参した楽器はいつ使うかというと、基本的にいつでも使っていたような気がする。合奏のシーンではもちろんワーワーガチャガチャと音を鳴らしまくった。波の音は恐らくオーシャンドラムで表現していたと思うのだが、それに似た楽器を持ってきていた観客は海辺の静かなシーンでも楽器を鳴らしていた。夜のシーンでは客席から鈴をシャリンと静かに鳴らす音が聴こえた。観客がSEとして自発的に演出に参加していたのだ。
観客が音を鳴らすと「あれは○○の音!」「あの音は○○だ!」と役者からレスポンスがくる。役者が歌い出すと観客も一緒になって歌う。舞台と客席の壁など存在しなかった。観客が奏でる音で死にかけていた"ねこ"の意識が戻り、最後の国立音楽ホールのシーンでは、作品の中でも楽団の演奏を見に来る観客に楽器を持参するように言っていた。観客役は私達だった。観客も役者になっていたのである。
まるで、ライブと舞台を行ったり来たりしているようであった。私は持ってきた楽器を一通り全て使った。観劇前に買ったミンティアもシャカシャカと振れば楽器になったし、汎用性の高いフエラムネは大活躍で、終演の頃には口いっぱいにラムネの味が広がっていた。これほどまでに自然に何かアクションを起こしたくなる舞台は初めてだった。自然に声が出る。自然に楽器を奏でる手が動く。劇場は音で溢れていた。発想次第で何でも打楽器になる。この世におよそ打楽器でないものはないのだ。隣の人は木箱をカホンのようにして演奏していたし、その隣の人はグラスをスプーンで叩いて演奏していた。中にはヴィブラスラップを持参している人もいたし、弁当箱に精米を入れてオリジナルシェイカーを作ってきた人もいた。音を楽しむ。そこに広がるのは、まさに、音楽だった。

世の中は音で溢れている。そのひとつひとつに耳を澄ませば、音楽が聴こえてくる。
今夜は、今夜だけは、わたしにも星の降る音が聴こえるかもしれない。だから、外に出て、目を閉じて、溢れる音に耳を澄ませてみよう。
 

「ふめよ ふめふめ 麦ふみクーツェ 麦に 良いも 悪いもない」

麦ふみクーツェ (新潮文庫)

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